2017年




ーーー5/2−−− 酒を飲まなくなった


 
私の酒量は、いささか度を過ぎている。60代前半となった今でも、三日でウイスキーボトル一本のペースである。三日でウイスキーを一本飲むことがあるという話ではない。そのペースで毎日なのである。従って、ウイスキーを尺度とすれば、一か月に10本、一年間に120本飲んでいることになる。50歳台まではもっとひどく、二日で一本のペースだった。サントリーの広報担当者を交えた酒席でその話をしたことがある。相手に喜んでもらうつもりが、逆に、「大竹さん、それは飲みすぎですよ」と言われた。

 こんな話を書き始めたのは、酒量を自慢したいためではない。私がいかに絶望的な酒好き、酒飲みであったかということを、端的に伝えたかったからである。そして、この一カ月ほど、自宅で全く酒を飲まなくなったという出来事の重大さを、認識して貰いたかったからである。

 別に健康を害しての自粛ではない。先日の健康診断では、完全な健康体であると医者から言われたくらいである。また、酒で手ひどい失敗をし、固い決意で禁酒を誓ったというわけでもない。ただなんとなく、酒を止めたのである。あえて理由を言うならば、毎晩夕食時に酒を飲み、酩酊し、その後の時間が全て無駄になり、しかも翌朝鈍い頭で目が覚めるという生活パターンが、馬鹿らしく思えたからである。

 飲酒を全面的に止めたわけではない。友人と会えば飲むし、地域の会合では今まで通り酔っぱらう。しかし、自宅では飲まない。夕食時に、酒の代わりにご飯を食べる。その後、また工房へ入ってひとしきり仕事をする。酒を飲んでいないから、機械作業をしても安全。細かい細工をしても、ミスをする不安は無い。そして、昼間とは違う雰囲気、落ち着いた静寂の中で、じっくりと仕事に向きあう。その時間が持てる幸せを、あらためて感じた。

 酒を飲まないので、夜中に車を運転することが可能になった。また、翌朝運転をする際に、体内に残ったアルコールの心配をする必要も無くなった。飲酒がいろいろな意味で行動を制限していたということが、思い知らされた。

 酒を飲まないということは、肉体と精神の自由を確保することなのである。逆に、その自由の重荷から逃れたいが故に、人は酒をのむのであろうが。

 正直言って、この状態がこの先いつまで続くかは分からない。ある日また飲酒路線に復帰し、リバウンドでかえって酒量が増えるかも知れない。そんな、将来への不安がぬぐい切れないというのも、自分の過去の行状に対する冷静な分析からである。それはともかく、現在のこの状況は、まことに驚くべき事であり、有り難いことである。
 
 自分が希望したわけでもないのにもたらされた幸せ。これも神様のお導きによるものか。





ーーー5/9−−− 関西人の会話


 
数人が集まった席で、関西人の会話が話題になった。関西出身の方が「信州の人たちは真面目すぎて、関西人と話がかみ合わない」というような事を述べた。さらに「関西人の話を真に受けてはいけません」と言った。

 それを聞いて私は思わず「えっ、本当にそうなんですか?」と聞いた。すると相手は「大竹さんのそういう反応が、関西人にとっては違和感があるのです。関西人ならギョッとしてしまいますよ」と言った。それを聞いて、私も含めて、その場の一同は大笑いをした。真に受けてはいけなかったのである。

 大阪に住んでいる長女家族が、連休中に遊びに来た。夕食の時に雑談をしていたら、やはり関西人の話になった。関西人は、話を面白くするために、大げさに言う傾向があると婿殿が指摘した。ちょっとした怪我でも「死ぬかと思った」などと言うと。

 こういう場合もやはり、「本当に死ぬと思ったのですか?」などと真面目に聞き返したら野暮だということなのだろう。確かにそう言われてみれば、うなずける気もする。

 しかし、話を面白くするというのも、度が過ぎれば間違いの元にもなろうし、逆に相手の感情を害する事もあるだろう。などと考えるのは「クソ真面目」で、「ええかっこしい」で、「あかん」ということになるのだろうか。





ーーー5/16−−− 中古のパソコン


 
3月下旬に、突然パソコンが不調になった。メーカーに電話をしたら、その症状は故障だと言われた。そして、このパソコンは旧いので、修理期限が過ぎており、修理は受け付けられないとの返事だった。一瞬ムッと来たが、もう10年近く使っているのだから仕方ないと思い直した。現代は、パソコンに限らず電気品一般に関し、修理期間内であっても、買い換えたほうが得だという時代である。修理など考える方が古いのかも知れない。

 私は、現代社会の勤労者の平均と比べれば、パソコンの依存度は低いと思う。仕事関係の書類は全て書き物で残してあるし、予定表なども手書きである。木工仕事には、一切パソコンを使わない。設計図面を書くためにパソコンを使うこともあるが、別にどうしても必要というわけではない。メールも、仕事に関係するものはほとんど無い。顧客とのやりとりは、いまだに手紙がメインである。

 とはいうものの、いざパソコンが壊れると、途方に暮れた感じになる。普段これといって意識はしていないが、やはりパソコンに依存しているのである。

 昔話を一つ。十数年前、世の中にどんどんパソコンが普及し始めた頃のこと。よく山登りを共にした友人は、私と同じでパソコンに手を染めていなかった。山に登るたびに二人で、使ってもいないパソコンの批判を繰り返し話した。ああいう道具に毒されてはいけないと。しかしその後、私はあるきっかけで、パソコンを使うようになった。少々うしろめたく感じた私は、その友人に対し、パソコンを使い始めたことを暴露した手紙に、「裏切り御免」と書いた。

 さて、現在の私は、パソコンを使わない生活を、ちょっとイメージできない。つまり、パソコンを止めるという選択肢は無い。そこで、すぐに買い換える算段を始めた。

 私よりははるかにパソコンに詳しい息子に電話をかけて相談した。息子のアドバイスはこうであった。パソコンは便利だが寿命が短く、また依存度が大きいほど壊れた時のダメージが大きい。だから、壊れることを前提にして使い方を考えなければならない。どうせ壊れるのだから、中古品を買うのが良いと。

 そこでネットで探したら、中古品がたくさん出てきた。しかも、驚くほど安い。その中から選んで注文したものは、価格5800円。ディスプレイやキーボードはこれまでのものを使うから、再スタートはこの金額だけで済んだ。1台のパソコンを、10年間使えば長いほうだろう。そのパソコンが新品で、価格が10万円だとしたら、今回手に入れた中古のパソコンは、半年使えれば元が取れる計算である。

 考えてみれば、新品のパソコンというのは、初めてパソコンを使う人にも問題が無いように、いろいろなサービス部分が付いている。既にパソコンに慣れている者には、そういうものは必要無い。自動車の運転と同じである。運転が出来る者なら、初めて接した車でもすぐに慣れて使えるようになる。中古車を買って、説明書も読まずに使っている人も多いだろう。今回の中古パソコンも、説明書すら無かったが、すぐに使えて、問題無かった。手取り足取りに関わる費用は、熟練者にとって不要な支出なのである。

 新たなパソコンを使い始めるときは、セッティングがとても面倒である。10年前はそう感じた。しかし今回は、そんなことも無かった。私程度の使用状況であれば、大したことは無いのである。これまでの年月の間に、それなりにパソコンに慣れたこともあるだろう。セッティングは半日もかからずに済んだ。復元に対する苦手意識があれば、パソコンの買い替えに躊躇する。しかしそれを克服すれば、買い替えも苦ではなくなるのだ。

 さて息子が指摘した「使い方」というのは、故障に備えてデータのバックアップを取ることである。だいぶ以前にそのことを聞いていたので、外付けのハードディスクを導入して、大事なデータはバックアップを取ってきていた。それで今回は、大いに助かった。しかし、ついうっかりして保存を忘れていたものもあった。それでは使い方が甘いと言われた。常時ハードディスクを繋ぎっ放しにして、パソコンを操作するごとに、そちらに保存するようにしなければダメだと。そしてさらに安全を図るなら、ネットを使って外部(クラウド)に保存した方が良いと。

 使い始めて一ヶ月半、中古のパソコンは快調である。パソコン内のハードディスクの容量の空きが大きいので、動作が早い。外付けハードディスクを併用しているので、この良好な状態はかなり長く持続すると思われる。それでも動作が鈍くなってきたら、買い換えれば良いだけのことである、なにせ安いんだから。使い捨て文化というのは、あまり好ましいものだとは思わないが、旧いものを使い続けるとダメージが増大する分野においては、ある程度の割り切りが必要だと思われる。




ーーー5/23−−− デジカメ雑感


 
今、私の目の前の作業机の上には、デジカメが3台ある。それらは現役だが、その他に使えなくなったが捨てていないデジカメが4台ほどある。ほんの30年ほど前の、カメラの事情を知っている人から見れば、信じがたいような状況であろう。その当時は、カメラと言うものは、一度買ったら一生使うような感覚で手にしたものである。

 我が家には、いまだにフィルムカメラが何台か生存している。一眼レフも2台ある。その内の一つはミノルタSRT-101。一眼レフの人気が急上昇した時代にあって、人気を博した名機の一つである。いささか残念で、もったいないな気もするのであるが、それらは20年ほど前から、一度も使われていない。

 デジカメの登場によって、写真の世界は、それこそ革命的に変わった。撮った写真をその場で見ることができ、しかも自宅でプリントできるのだから、フィルムカメラの世界から完全に離れた、別の次元になってしまった感がある。またその便利さ故に、今や全面的にフィルムカメラを凌駕したと言っても良いだろう。プロの写真家は言うに及ばず、アマチュア写真家でさえ、フィルムカメラにこだわっている人は、希少な存在であると思われる。

 さてそのデジカメだが、便利さも度が過ぎているように感じるのは私だけだろうか。とにかく多種多様な機能やモードがあり、全ての操作を覚えるのは到底不可能。痒いところに手が届くような細かい配慮がいたるところに盛り込まれているが、果たしてそれらが本当に必要なのかと、疑問に思うこともある。

 必要な機能だけ使えば良いと言う人も居る。自分の使い方に関係が無いと思われる機能は、無視すれば良いと言うのである。使わない部分があれば、その分は代金を損した気持ちになるが、それはまあ目をつぶっても良い。問題なのは、ミスタッチでスイッチを押してしまい、得体の知れないモードに入ったり、設定した条件が狂ってしまうことだ。

 そんな場合は、取扱説明書を見なければ対応できない。取扱説明書を見ながら操作するというのも、まことに億劫だ。フィルムカメラの時代だったら、どんなに高級なカメラでも、いちいち取扱説明書を見ながら操作をするなどということは有りえなかった事である。写真を撮るという行為は、まことにシンプルなものだったのだ。ところでその取扱説明書も、近頃はネットからダウンロードしなければ見れない。カメラに付属していないのである。これもまったく、如何なものかと思う。

 現代のデジカメは、スイッチ操作で様々なオプションを選択できる。それを上手く使えば、思い通りの写真が綺麗に撮れる。そういう楽しみを、誰でも手軽に味わえるようになったということは、技術革新がもたらした成果であろう。しかし、私のように旧い時代のノスタルジアに浸りがちな人間にとっては、高性能、多機能過ぎて、なかなか気持ちが通じにくい道具である。それに、壊れやすい。




ーーー5/30−−− 税務署のミス


 税務署から封書が舞い込んだ。こういうのを見ると、何も悪いことはしていないのに、なんだか嫌な気がするものである。

 開けて見たら、税金の納付に関して、指定口座から引き落としが出来なかったので、代わりの手段で至急支払うようにとの連絡だった。延滞税という語も見えた。嫌な予感が的中した形になったが、ちょっと待てよ、何かおかしいぞ。

 引き落としが出来ない理由として、当該の金融機関から、その口座に取り引きは無いとの連絡があったと書いてあった。そんなはずはない。

 昨年までは、振込みで済ませていた。今年から引き落としに変更した。税務署から届いた確定申告の書類の中に、引き落としを推奨する文書があり、手続きの用紙が入っていたからである。私は、基本的に引き落としと言う手段は好まないが、どうせ毎年払わなければならないものだし、相手が役所だから間違いは無かろうと、引き落としの手続きに応じたのである。

 家内に話をした。家内も「あらおかしいわね、少し前に、指定口座から引き落としをするので、残高を確認するようにとの葉書が来ていたのに」と言った。

 その経緯からすれば、手続きは受理され、その線で進んでいたということであろう。従って、このトラブルの想定される原因は以下の二つに絞られた。手続きの用紙に記入する際に、必要事項を書き間違えたか、あるいは先方の事務的なミスか。用紙に記入をしたのは家内である。彼女の名誉のために付け加えるが、こういう大事なことでミスをする人ではない。何度も繰り返しチェックをして、万全を期すタイプである。

 翌日、私は朝から用事で出かける予定があったので、家内が税務署に電話をした。帰宅してから聞いたら、税務署のミスであったことが判明したそうである。調べると言っていったん電話を切り、折り返しかかってきたら「申し訳ありませんでした」と低姿勢だったとのこと。家内が「入力ミスだったんですか?」と問い詰めたら、「済みませんでした」と認めたそうである。

 そして、改めて封書で口座引き落としの確認書類を送ると言ったそうである。日を置いてその封書は届いたが、中に入っていたのは以前の葉書と同じ文書だった。事務手続きのミスに関する説明はどこにも無かった。

 人間にミスはつき物だから、ことさら声高に非難をするつもりは無い。しかし、延滞税うんぬんといった書類に接し、多少なりとも心中にストレスを感じた身としては、もう少し対応に配慮があっても良いのではないかと思った。金融機関から「取り引きなし」との連絡を受けた時に、入力ミスを疑うのが当然だと思う。今後はそのようなチェックをして、トラブルの再発を防ぎますとの一文くらい、あっても良いのではないか。

 ともあれ、役所の仕事にこんなミスが生じたというのは、一つの驚きだった。手続きが面倒で、能率は悪いけれど、間違いは無いというのがお役所仕事のこれまでのイメージだった。そのイメージも当てに出来ない時代になってきたのか。











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